担当者には準備の記録が残る。来館者にはその日見た作品の記憶が残る。そして作品は再び収蔵庫へ戻っていく。
もちろん、それでいいのかもしれない。文化財は本来、その場で実物を見ることに価値がある。
だから撮影が禁止されている展示もあるし、画像の利用が制限されている作品もある。
「実際に来て見てほしい」という考えは、正しい。私もそう思う。
ただ、来た人の記憶にも、思ったより残らない。
私の趣味は展覧会巡りだ。妻と毎週のように、各地の展示を見て回る。
帰り道、二人で話す。あの展示よかったね、と。キャプションが面白かった。色が綺麗だった。
でも、話せる作品は3つか4つだ。あれが良かった、あそこが凄かった。それ以外は「全体的に良かったね」で流れていく。展示室で確かに感動したはずのものが、帰り道にはもう輪郭を失っている。
私の見方が足りなかったのか。それとも、作品の魅力を持ち帰る手段がなかったのか。おそらく両方だ。
強烈に印象に残った作品でも、数週間もすると細部を思い出せなくなる。
作品名は覚えていても、あの質感が、あの陰影が、どうだったのかを再現できない。展示室で確かに見たはずなのに、誰かに話そうとすると、うまく説明できない。
来館者だけではない。企画した側にも、おそらく同じことが起きている。展示のために調査し、準備し、多くの時間をかけて実現した展覧会が、会期の終わりとともに少しずつ日常へ戻っていく。
そして作品もまた、限られた人しか見ることのできない場所へ戻っていく。
私はかつて、展覧会図録の制作に関わる仕事をしていた。レタッチャーとして画像を修正し、色校正に立ち会い、印刷の現場で作品の色を確かめる。実物を目の前にして、それを紙の上にどう再現するかを考える仕事だ。
画像を扱う仕事だったからこそ、気になっていたことがあった。
写真は美しい。展覧会図録に収められた一枚一枚には、カメラマンの眼がある。どの角度から、どの光の中で、作品のどの部分に焦点を当てるか——それはひとつの解釈であり、ひとつの視点だ。
でも、それはカメラマンが選んだ視点でしかない。
見る人が自分で角度を選べたら。光の当たり方を変えられたら。手に取れないものを、手に取るように見られたら。画像が良いなら、3Dはもっといいはずだ。そのことをずっと、頭の片隅に置いていた。
やがて私は印刷会社を離れ、3Dスキャンを生業にするようになった。図録の仕事で抱えていた問いが、そのまま新しい仕事の出発点になった。
データはある。でも、誰も見ていない。
近年、文化財のデジタル化は少しずつ広がっている。3Dスキャン、デジタルアーカイブ、オンライン展示。技術は確実に進んでいる。
私自身も、3Dスキャンという仕事を通して、文化財や立体作品の記録に携わるようになった。形状を残すこと、質感を記録すること、失われるかもしれないものをデータとして保存すること。そこには大きな意味がある。
ただ、現場に関わる中で、別のことも見えてきた。
スキャンされたことすら、告知されていないケースがある。データは公開されている。でも、誰にも見つけられていない。観覧数は、ほとんど動いていない。
これは文化財だけの話ではない。ウェブサイトを作れば見てもらえるわけではない。動画を公開すれば再生されるわけでもない。データを公開することと、人に届くことは、まったく別の話だ。
存在することと、届くことの間には、思っているより大きな溝がある。その溝を埋めない限り、どれだけ精度の高いデータを作っても、展覧会が終わった後の静けさは変わらない。
保存は出発点だ。問題は、その先をどう設計するかにある。そんな問いを持ちながら仕事を続ける中で、ひとつ印象に残る案件があった。
触れない作品を、手元へ
大阪市立美術館の案件だった。
対象は漆の作品だった。黒く、光を反射する。傷をつけることは許されない。技術的な問題より前に、いくつかの制約の中でどう動くかを考える必要があった。非接触で、正確に、形と質感を記録する。それがスタート地点だった。
完成したグッズは、ミュージアムショップに並んだ。来館者が手に取り、持ち帰った。
納品後、こんな話を聞いた。別の作品もフィギュアにしてほしいという問い合わせが来ている、と。
その一言が、ずっと印象に残っている。展覧会が終わった後も、来館者は作品のことを考えていた。手元に置きたいと思っていた。
保存したデータが、人との接点になっていた。
活用とは、こういうことだと思った。展示で見た作品が、グッズという形で手元に残る。教育の場で使われる。別の展覧会でまた登場する。データが眠り続けるのではなく、形を変えながら人と出会い続ける。
展覧会が終わっても、作品との関係が続く。それが、保存の先にあるものだ。
保存だけで終わらせない、ということ
文化財は保存されるべきだ。それは疑いようがない。
ただ、保存されたものが誰にも届かないまま眠り続けるとしたら、それは本当に「残した」と言えるだろうか。
展覧会が終わっても、記憶は残る。ただし、薄れていく記憶が。
データは残る。ただし、見られないデータが。
作品は残る。ただし、限られた人にしか届かない場所に。
保存すること。そして、残したものが誰かに届き続けること。その両方を実現するための、小さな実践。
私はそれを、「文化財スモールDX」と呼んでいる。
この問いから生まれた実装については、次の記事で書いています。